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金山明|吉原治良との隔たりを自覚した具体作家

具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第27回目は具体メンバーであり、1952年に白髪一雄や村上三郎らと「0会」を結成したアーティスト・金山明をご紹介する。綿密に検討して幾何学的形態を配置した平面作品や、空間の質を変化させるようなインスタレーションを行った金山明。そんな金山の芸術思想や、同じく具体メンバーであった田中敦子との関係性を、美術史家・加藤瑞穂が語った。


金山明―吉原治良との隔たりを自覚した具体作家―

加藤瑞穂(美術史家)


具体美術協会(具体)メンバーの中で金山明(1924―2006年)ほど「具体」らしく見えない作家は他にいないであろう。金山が1952年に白髪一雄や村上三郎らと0会を結成し、1955年に具体へ合流した時期には、筆のタッチやストロークをできるかぎり残さず、構図を綿密に検討して幾何学的形態を配置した平面作品群を手掛けていた。後年白髪はそれらを「モンドリアンの純粋抽象の作品をもっと単純化したような絵」と表現したが、そのスタイルは、具体の主流と一般に見なされている、描く行為や素材の存在感を前面に打ち出したものとは全く異なり、むしろ正反対とも言えるほどである。ついには何も描いていないキャンバスを吉原治良に作品として提示したというエピソードは、金山の徹底した急進性を如実に表しており、平面以外にも、いわゆるインスタレーションの先駆と見なしうる画期的作品を具体加入直後に複数発表した。

例えば、展示室の高さに匹敵するほど大きなビニール製のバルーンを展示室中央に設置する一方、その斜め上方には電球を仕込んだ赤いグローブを天井からつり下げ、周囲を赤に染めてしまった作品、あるいは、100メートルもの細長いビニールシートに靴の跡を描いて、会場となった松林の公園に道のごとく敷いた《足跡》や、電鉄会社から借用した踏切用警報機を公園に設置して、警報音を響かせ赤いランプを点滅させる《警報機》など、いずれも会場となった空間の質を変化させる点や、鑑賞者に時間の経過を意識させたり、その場に占める自らの空間内の位置を再認識させる点などに特徴がある。つまり他の多くの具体作家に見られるように、激しいタッチや厚く盛り上げた絵の具を通して、創造主としての作家の存在を主張しない。それはおもちゃの電気自動車や手製の自動線引機で描いた作品群についても同様であり、機械による動きの軌跡は、作家の主観よりも時間の推移や空間の移動、物理的原理といったものを浮上させる。

具体内における金山のこうした特殊性については、1972年の具体解散後まもない時期から指摘されていた。日本の戦後美術における具体の歴史的意義を初めて考察したとされる彦坂尚嘉の論考「閉じられた円環の彼方は  〈具体〉の軌跡から何を……」(『美術手帖』第370号、1973年8月)では「特異な作家」と呼ばれた。また戦後日本美術の展開を初めて包括的に論じた千葉成夫の『現代美術逸脱史 1945~1985』(晶文社、1986年)においても「「具体」のなかの異邦人」として特記されている。しかも金山自身、自らは田中敦子と並んでアクションとは無縁であったことを明言すると共に、リーダー吉原との見解の相違についても包み隠さず語っている。

金山が吉原と最も相容れない点は、「物質」の捉え方であった。「吉原さんは嶋本なんか集めて、物質が精神に反発してくる。絵なんか物質や、それが精神に反発してくるのが芸術やと言われた時、僕はどうにもそれがわかりにくくて。(中略)吉原さんは最後まで、物質が精神に反発してくる。自分の描いたタッチなんかが精神に反発してくるというような絵画は僕にはわからなかった」(『具体資料集』(財)芦屋市文化振興財団、1993年、401頁)。「もの」よりも金山が着目したのは、金山自身が1957年に述べているとおり「平面、空間、時間、と云う分ち難い要素」であり、換言すれば「もの」と「もの」との間にある関係性だったと考えられる。1970年代以降、音楽や天文といった分野をテーマにしたのも、複数の要素の間にある関係ないし法則に関心を寄せるという金山の資質ゆえであろう。

金山が1965年に具体を退会したのは、もちろんこのような吉原の志向との食い違いに端を発するが、より具体的な原因は、田中敦子に対する評価の相違と、吉原と田中の間に生じた確執による田中の体調悪化であった。田中の才能をいち早く見抜いて抽象の世界へと導いたのは金山であり、その後0会、具体で活動を共にしながら、常に田中への助言や協力を惜しまなかった。吉原からも、田中を「発見」したのは金山だと言われるほど、二人の出会いは互いにとって重要な意味を持ち、田中自身、もっとも影響を受けた人物として金山を挙げている。つまるところ田中の作品は金山の存在抜きには語り得ず、田中作品が具体では異質と言われたのも、元を辿れば金山の志向に由来する一面があると思われる。

退会時は制作もままならなかった状態の田中は、金山の献身的な支えを得て1960年代後半、具体時代に勝るとも劣らない充実した時期を迎え、その後も約40年にわたって精力的に大作を描き続けた。21世紀に入って田中が具体の枠から離れ一人の作家として欧米を中心に評価が高まったとき、もっとも喜んだのは他ならぬ金山である。具体結成後すでに60年が経過し、その歴史的意義を見直す研究にこれまで以上の丹念さが求められる現在、吉原との隔たりを自覚していた金山・田中への着目は、具体の実像に迫る上で重要な手がかりの一つを私たちに示してくれるにちがいない。

(月刊ギャラリー9月号2014年に掲載)

“具体美術協会”の詳しい紹介はこちら »

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